2009年10月22日木曜日

映画「しんぼる」を観て花屋のセンスを思う③

花屋という空間には、さまざまな人生の、濃密なストーリーが、他の業種とくらべてもより一層満ち満ちているような気がします。

我々花屋は、花を媒介とし、そのストーリーにわかりやすい目次をつけるというくらいのお手伝いはしてあげられているのかもしれません。

だから花屋には、デザイナーではなくコーディネーターとしての資質を問われる場面のほうが圧倒的に多い。経験で培われた花のセンスが時には何の役にも立たなくなることもあります。
何よりも花を買ってくださるお客様に、花を受け取られる方に満足していただくためには、全力で「あえて落とす」ことが大事なこともあるんです
(もちろん手抜きや品質を落とすなんてことはありません)。

生意気に聞こえるといやなので、例えを出しましょう。
「カッコイイ外国の男性にステージ上で渡したい」という注文があったとします。
これはオシャレに作らなきゃいかんと思ったあなたは、まだ想像力が足りません。
ステージがリングの言い間違いで、相手がタイガージェットシンだったらどうしますか。オシャレどころではなく、シンは間違いなくその花束で相手に襲いかかるでしょう。

遠くからでも花束だと認識してもらうためには、うんと派手なほうがいい。
バラは、とげが相手に刺さると可哀想ですね。
ちょっとかっこよくサンゴミヅキやクジャクヒバあたりの枝物を多用したら、ガチで凶器になってしまいます。

オシャレやセンスを全力で落としてでも、貫き通したい大事なこともあるという一例です。

ここにきてようやくタイトルと内容が近づいてきました。
「しんぼる」の笑いは、「物足りないな」と感じるような特定の日本人に向けてではなく、広く世界中の人に、という狙いがあったように思います(一方で、ラストシーンの壮大なばかばかしさは、伝説のカルトムービーとなりうるような風格を兼ね備えている気もしますが)。笑いで自分を表現する、なんて青臭い場所からは遠く離れたところにいるのでしょう。

花で自分を表現する。
悪くはありませんが、ちょっともったいない感じがします。
花が自分から離れていったところに、
花屋の醍醐味があると思うからです。了。

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