2010年7月23日金曜日

大切な人の好きな花は何ですか?

 先日高校時代の友人から電話があった。
卒業以来の懐かしい名前と声に驚くのも束の間、その電話が訃報だと知り一層驚いた。
亡くなったのはやはり同じ高校の友人で、すでに七年前に他界しているという。
親しい、と感じていた友人たちでさえ、七年間そのひっそりとした死を知ることがなかった。
 
 彼女の死を取り巻く様々な事情や感情は、ここで書くにはあたらない。
ただこの世にありふれた死というものは存在しないのだとつくづく思い入る。

 その後、みんなで墓参りに行こうということになった。
それぞれ仕事も家庭も持ち、住んでいるところもばらばらになっている。
ようやく全員の調整がついたその日は、彼女の命日ということだった。偶然だったらしい。

 6人が集まったのに、花を持参したのが自分だけだったのは意外だった。
みんな「誰かしら持って来ると思った」という。
その誰かが花屋である自分だったことに、ほんの少しだけほっとした思いがしつつ。

 若くして亡くなった女性のためにと仕立ててもらった花には、少し靄ががかったような淡いピンクのガーベラが入っていて、それは、はからずも亡き彼女に似たたたずまいを持っていたように思う。
誤解を恐れずに言うと、彼女はどこか溌剌と生きることが似合わないとでもいうような、青ざめた、冷たい美しさを湛えた人だった。

 ささやかな追悼会では、その日の眼目が何であるかをあえて確かめようとする者もいなかった。
死と、十数年間の生の物語とがない交ぜとなり、かえってその場の色がうっすらとしたようだった。

 そんな中でふと出てきた初めてきく話に、あまりにいろんなことを一瞬にして鮮明にさせられた気がした。
その場にいた自分ひとりだけのことだったろう。
それはとても簡潔なこんな話だった。

「あのこは花が大好きだった。
好きな花は、ガーベラだった。」

 以前いた従業員にもこんな話を聞いたことがある。
彼女はとても若い頃に母親を亡くしていた。
悔やんでも悔やみきれないのは、母親の好きだった花を知っておかなかったことだ、といった。

 花を手向けるとはどういうことなのだろうか。
そんな問いに対する答えなどなくとも、ひとは死者に花を手向けたいとただ自然に思う。
できれば、好きだった花を飾ってやりたい、と。

花屋はきっとそういう思いを繋いでいる。

2009年11月26日木曜日

花の名前について

「2人の間にシネラリア
合乗り自転車 天際まで
粘土で作ったクリスマス
わたすげの冬から あなたを守ろう」

これがモダンチョキチョキズの名曲「自転車に乗って」の一節であることはみなさんの心の中にしまっておいてもらうとして、ここで触れたいのはシネラリアという単語についてです。

ご存知の方も多いと思いますが、シネラリアとはキク科の植物のことです。多様な色のバリエーションがあり、室内でも次々と花を咲かせることで人気のある園芸用の花で、和名を富貴桜といいます。

それでもピンと来なければ、「サイネリア」ではどうでしょう。
実はシネラリアとサイネリアは同じ花のことなのです。

なぜ似たような2つの名前を持つのかというと、シネラリアだと「死ねラリア」を連想させるため、花業界ではサイネリアを一般的な流通名としてでっちあげた、ということらしいのです。

トホホです。ダジャレに屈した花の名前ってどうなんだ。
シネラリアの綴りは「cineraria」ですから、サイといえなくもありませんが、だとしたらサイネラリアじゃなくては納得いかない。

他方「cinema」という単語は、昔「キネマ」といったものを、より正しい発音をありがたがって「死ねま」に移行していった気がするのですが、まあ、こっちは「映画」といえば済む話ですね。

花の名前は結構、いい加減、という話です。

切花のランではおそらく最も有名なデンファレという花があります。
もはや、デンファレとしかいいようのないこの花、実は「デンドロビウム・ファレノプシス」の略語だったりします。ナイスいい加減。

いまやカスミソウと人気を二分する勢いのブプレリウムというグリーンのふわふわ花。
これもほんとは「ブプレウルム」というのが正式名称です。
いいづらいでしょということで、反則ファインプレー。

古い花の本を見たりすると、最近では何かと欠かせないアイテムにまで昇りつめた花後の実物ヒペリカムが、「ヒペリクム」と表記されたりしてるのを見かけます。
トウガラシの総称カプシカムも「カプシクム」と書いてありがちです。
こっちは発音ではなく、表記が先に輸入されたパターン。ともにHypericumとCapsicum。

突然ですが、サボテンのイニシャルってなんだか知ってますか?
Sに決まってる、というわけでもないんです。
サボテンの語源には諸説あり、なかでも有力なのがシャボン(石鹸)からきたというもの。そしてシャボンはイタリアの寄港地サボナに由来するらしいので、そうするとイニシャルはS(savona)になります。
一方で、サボテン研究や写真家としても知られる埴沙萌という方が唱える、サポテカ文明説というものあるんです。
古代メキシコで栄えたといわれる種族がサポテという植物をよく食していた、それがサボテンではなかったという説です。それがほんとなら、サボテンのイニシャルはなんとZ(zapotec)になってしまいます。

意外と誤解されているのが、秋桜と書いてコスモスと読む、というもの。
歌のタイトルの影響でしょうか、コスモスが和語だと勘違いしている人が多いようです。
秋桜と書いて、「あきざくら」と読むのがとりあえず正解です。了。

2009年10月22日木曜日

映画「しんぼる」を観て花屋のセンスを思う③

花屋という空間には、さまざまな人生の、濃密なストーリーが、他の業種とくらべてもより一層満ち満ちているような気がします。

我々花屋は、花を媒介とし、そのストーリーにわかりやすい目次をつけるというくらいのお手伝いはしてあげられているのかもしれません。

だから花屋には、デザイナーではなくコーディネーターとしての資質を問われる場面のほうが圧倒的に多い。経験で培われた花のセンスが時には何の役にも立たなくなることもあります。
何よりも花を買ってくださるお客様に、花を受け取られる方に満足していただくためには、全力で「あえて落とす」ことが大事なこともあるんです
(もちろん手抜きや品質を落とすなんてことはありません)。

生意気に聞こえるといやなので、例えを出しましょう。
「カッコイイ外国の男性にステージ上で渡したい」という注文があったとします。
これはオシャレに作らなきゃいかんと思ったあなたは、まだ想像力が足りません。
ステージがリングの言い間違いで、相手がタイガージェットシンだったらどうしますか。オシャレどころではなく、シンは間違いなくその花束で相手に襲いかかるでしょう。

遠くからでも花束だと認識してもらうためには、うんと派手なほうがいい。
バラは、とげが相手に刺さると可哀想ですね。
ちょっとかっこよくサンゴミヅキやクジャクヒバあたりの枝物を多用したら、ガチで凶器になってしまいます。

オシャレやセンスを全力で落としてでも、貫き通したい大事なこともあるという一例です。

ここにきてようやくタイトルと内容が近づいてきました。
「しんぼる」の笑いは、「物足りないな」と感じるような特定の日本人に向けてではなく、広く世界中の人に、という狙いがあったように思います(一方で、ラストシーンの壮大なばかばかしさは、伝説のカルトムービーとなりうるような風格を兼ね備えている気もしますが)。笑いで自分を表現する、なんて青臭い場所からは遠く離れたところにいるのでしょう。

花で自分を表現する。
悪くはありませんが、ちょっともったいない感じがします。
花が自分から離れていったところに、
花屋の醍醐味があると思うからです。了。

2009年10月8日木曜日

映画「しんぼる」を観て花屋のセンスを思う②

自己顕示欲という名の花が咲きだすと、もう開花が止まりません。

お客様にダメ出ししたりしてました・・・。

白とグリーンのみでまとめた、ただならぬオシャレな気配のする作り置きブーケが全く売れないことを、地域住民のせいにしてました。

お供え以外にはあまり使われないような花を、「COOLじゃない」という理由で店に置かないようにしたりしてました。

ああ、なんなら、いまから一件一件お詫びに行こうじゃありませんか。

白とグリーンのブーケを持った私を、街中引きずり回してください。

まあそんな勘違い期間はしばらく続くのですが、「反省」という名の実がなるのも月並みな話です。

若い頃の自分に、決定的に想像が及ばなかった事とは何なのか。
それは、花が売れていった、その後のストーリーです。

花を買ってくださったお客様が、その後その花とどう向き合っていくのか。
我々が単に「用途」といっているものは、もちろん言葉の意味だけにとどまりません。

花には、ご家庭用であれ、プレゼント用であれ、人生の節目ごとにうたれる刻印のような役割があるんだと思うのです。

③に続く

2009年9月30日水曜日

映画「しんぼる」を観て花屋のセンスを思う①

花のセンスを高めるためにはどうすればいいか。

一番の近道は花屋になることに他なりません。

花屋といってもいろいろですが、まずは花にまみれた環境に身をおくことが重要です。

自分の場合、名前も似てりゃ見た目も似てるストックとスナップなんて、見分けがつくのに3ヶ月はかかりました。
ちっとも近道じゃねーじゃねーかと思われつつも、花屋にでもならなければ一生縁のない花を覚えられたことは格段の進歩です。

そうこうしているうちに、ほっておいても目が肥えてきます。

全く読書したことのない人間と、毎日読書している人間とでは、自ずと持てる語彙が違ってくるのと近いかもしれません。

最低1年間は勤める必要があります。もちろん、季節の花が一巡するからです。

そして、毎日嫌でも花束を作っていると、ある時ふと、目覚める瞬間があるんです。
「わたしはプロの花屋である」と。

自分の場合、3年かかりました。
ちっとも近道じゃねーのですが、芍薬のつぼみがこの世の植物とは思えなかった若造にしてみれば、奇跡的な進歩です。

ところが問題はこの先にあります。
花屋としての誇りが芽生えた後には、自己顕示欲という名の花が咲いてしまうわけです。

②に続く。

2009年9月10日木曜日

花屋の仕事

花屋には実に様々な仕事があります。

その中でも特に思い入れのある3つの仕事があります。

ひとつめは、自分がやらなければ誰がやるんだ、という使命感に突き動かされながら行う、ひとつのゴミ袋にどれだけゴミを詰められるか、というもの。
30cm以上の茎をそのまま捨てているやつには、説教あるのみです。

ふたつめは、どうにかなるまで永遠に続けられちゃうのではないか、というくらい好きな、桶を洗うこと。手触りだけで汚れが落ちる瞬間がわかります。さらばバクテリア。略せというなら、さらバク、といったところでしょうか。

みっつめは、最も得意とする作業で、折りたたんだ段ボールをポリ紐で固くきつく縛ること。かっちかちの、ぱっつんぱっつんです。

いっこも花が出てきません。
自意識が服を着て歩いてたみたいな中高生だった自分にそっと教えてあげたいですね。
人生捨てたもんじゃないぞと。

2009年8月28日金曜日

花屋にまつわる迷信?其の壱③

それからなんとなく気にしながら見聞きしていると、茎の保水処理というサービスは世界的にあまり見られないということがわかってきました。

そもそも保水処理とは、花をしおれさせないためにすることのはずです。
切花がしおれてしまうことを花屋では「水が下がる」といいますが、この水が下がってしまう原因の多くは、実は茎の保水処理をする、しないとはあまり関係のないところにあります。

たとえばキクやバラなど葉をたくさん持つ切花の場合、水下がりは主に葉の裏側から水分が蒸散することによって起きています。新聞紙で包むなどして水分の蒸散を防げれば、たとえ茎が裸のままでも、数時間、花によっては一晩くらいなんともない場合もあったりします。

ここで花の国オランダに話を戻し、「茎むき出し」にはどのような背景があるのか考えてみることにします。

まず、オランダではグリーン(葉物)が異常に安いんです。
安いというのか、花束を注文すると頼んでもいないのにわっさわっさとまわりをグリーンで固めてくれたりします。ほとんどタダ?
これは丈夫なグリーンで花を保護するという意味でもあるわけです。もちろん水分の蒸散も防ぎます。

そして、花瓶に活ける前には必ず「水切り」をすること。これがオランダでは深く浸透しているような気がします。
濡れティッシュをはがしてそのままポンと活けるより、多少茎が乾いていても、しっかり「水切り」してから活けたほうがよっぽど花は元気になるんです。

あとは欧米人の合理主義とでもいうんでしょうか…。
花束は花の束だ。というそれこそむき出しの真実を我々日本の花屋は突き付けられているわけです。ちょっと大袈裟なので、「オランダの花屋は、やや、がさつ。」ということにしておきましょう。

いろんなことをいいましたが、やはり1時間以上持ち歩かれるという方には、保水処理をしておかなければ心配になりますし、そうお勧めしています。
が。スーパーの野菜に保水処理をして持って帰るような、ひょっとしたら、日本の花文化はそんな奇妙な時代にあるのかもしれません。

2009年8月21日金曜日

花屋にまつわる迷信?其の壱②

完成された花束、というと通常どんなものを想像するでしょうか。

きれいに形が組んである、これは基本です。
ここから茎のあたりをラッピングペーパーで包み、さらにセロハンで全体を覆ってから持ち手のあたりにリボンをつけて・・・、というのが最も一般的なスタイルかと思います。

ところがオランダの最高級花店で注文した花束は、張りのないセロハンのみで無造作に包まれ、申し訳程度のへろへろリボンをまとって登場しました。「ギフトラッピング」と念を押したにもかかわらず、です。

そして肝心なことがもうひとつ、通常花束には、持ち歩きに耐えるよう茎の切り口に保水処理が施されます。のはずです。

オランダの花束にはそれがありませんでした。つまり、茎がむき出しの状態だったのです。

どうやら、我々日本人からすると「サービスが悪い」としかいいようのないこの花束ラッピングは、オランダではどの店でも当たり前のように行われていることらしいのです・・・。

③につづく。

2009年8月10日月曜日

花屋にまつわる迷信?其の壱①

世界中に存在するであろう、お花屋さんという商売。
今回はその中で、日本では当たり前のようにされているのに、意外にも世界的にはほとんど見られないというあるサービスについてお話します。

花の需要大国として真っ先に思い浮かぶ国といえば、オランダでしょう。我が社の屋号の一つである「オランダ屋」という名前も、オランダに対する憧憬の念から生まれたものです。
そんな花の国オランダへ研修に行かせてもらったときのことです。

たとえば、どんな所で辺りを見渡しても、目に入らないことがないだろうというくらい、暮らしの中に花があふれている。あるいは花市場の桁違いの大きさ。地平線でも見えそうな。
そんな様々なカルチャーショックを浴び続けたオランダ研修の一環として、「どの花屋でもいいから、自分一人で行き花束を買ってくる」というものがありました。作り置きではいけません。

私が選んだお店は、後で知ることになるのですが、どうやらアムステルダムでも随一のセンスを持つ、最先端の花屋だったらしいのです。確かにちょっと近寄りがたい雰囲気も。ちなみに写真撮影はすぐに断られました。

「ぷりーず めいく あ ぶーけ ふぉー まい ふぁみりー」とかなんとか、拙い英語でも伝えることができました。花を何種類か選び、最後にもう一度「ぷりーず ぎふと らっぴんぐ」と念を押すと、「off course」とかえってきました。

そして待つ事10分。できあがった花束をみて、私はオランダ研修最大の衝撃を受けることになります。

②につづく。