先日高校時代の友人から電話があった。
卒業以来の懐かしい名前と声に驚くのも束の間、その電話が訃報だと知り一層驚いた。
亡くなったのはやはり同じ高校の友人で、すでに七年前に他界しているという。
親しい、と感じていた友人たちでさえ、七年間そのひっそりとした死を知ることがなかった。
彼女の死を取り巻く様々な事情や感情は、ここで書くにはあたらない。
ただこの世にありふれた死というものは存在しないのだとつくづく思い入る。
その後、みんなで墓参りに行こうということになった。
それぞれ仕事も家庭も持ち、住んでいるところもばらばらになっている。
ようやく全員の調整がついたその日は、彼女の命日ということだった。偶然だったらしい。
6人が集まったのに、花を持参したのが自分だけだったのは意外だった。
みんな「誰かしら持って来ると思った」という。
その誰かが花屋である自分だったことに、ほんの少しだけほっとした思いがしつつ。
若くして亡くなった女性のためにと仕立ててもらった花には、少し靄ががかったような淡いピンクのガーベラが入っていて、それは、はからずも亡き彼女に似たたたずまいを持っていたように思う。
誤解を恐れずに言うと、彼女はどこか溌剌と生きることが似合わないとでもいうような、青ざめた、冷たい美しさを湛えた人だった。
ささやかな追悼会では、その日の眼目が何であるかをあえて確かめようとする者もいなかった。
死と、十数年間の生の物語とがない交ぜとなり、かえってその場の色がうっすらとしたようだった。
そんな中でふと出てきた初めてきく話に、あまりにいろんなことを一瞬にして鮮明にさせられた気がした。
その場にいた自分ひとりだけのことだったろう。
それはとても簡潔なこんな話だった。
「あのこは花が大好きだった。
好きな花は、ガーベラだった。」
以前いた従業員にもこんな話を聞いたことがある。
彼女はとても若い頃に母親を亡くしていた。
悔やんでも悔やみきれないのは、母親の好きだった花を知っておかなかったことだ、といった。
花を手向けるとはどういうことなのだろうか。
そんな問いに対する答えなどなくとも、ひとは死者に花を手向けたいとただ自然に思う。
できれば、好きだった花を飾ってやりたい、と。
花屋はきっとそういう思いを繋いでいる。
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